知らないじゃ始まらない!日本語ラップの歴史【第2回:1986年〜1990年編】

前回の「黎明期(1981-1985)」では、YMOやいとうせいこう氏による、知的な「実験」としてのラップの誕生を追いかけました。しかし、1986年からの5年間、その空気は一変します。

それは、NYから届いた圧倒的な熱量に当てられた若者たちが、「本場の真似事ではない、自分たちのカルチャー」としてHIPHOPを確立しようと暴れ出した時代。RUN DMCの衝撃から、伝説のレーベル設立、そしてスチャダラパーのデビューまで。日本語ラップが「牙」を剥き始めた、熱狂の5年間を凝縮して届けます。


1986年:RUN DMC来日という「地殻変動」

1986年、NYから最強のトリオ、RUN DMCが来日しました。アディダスのセットアップに紐なしのスーパースター。この時、彼らが放ったエネルギーを最前列で浴びたのが、後のシーンの総帥・ECDでした。

「レコードにはギターが入っていたから、ライブでも誰かが弾くのかと思ったら、ステージにはターンテーブルとマイクしかなかった。それだけで世界を揺らせるんだと衝撃を受けた」

この体験が、後に「さんピンCAMP」へと繋がる反骨の精神に火をつけました。また、同年には近田春夫氏が「Masscommunication Breakdown」を発表。単なる流行への批判をラップに乗せたこの曲は、YOU THE ROCK★ら後のアーティストに多大な影響を与えました。

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1988年:伝説のレーベル「MAJOR FORCE」設立

1988年、日本初のHIPHOP/クラブミュージック専門レーベル「MAJOR FORCE(メジャー・フォース)」が産声を上げます。

高木完、藤原ヒロシ、屋敷豪太、工藤昌之、中西俊夫という、当時の東京のストリートを代表するクリエイターたちが結集。単なる音楽制作にとどまらず、ファッションやライフスタイルを含めた「東京発のHIPHOP」を世界に発信し始めました。

同年、原宿のストリートではB-FRESH(MC BELL、DJ KRUSHら)が活動を開始。後のMUROらも加わり、日本のHIPHOPにおける「現場(ストリート)」の重要性が一気に高まったのもこの時期です。


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1989-1990年:スチャダラパー登場とシーンの分化

80年代の締めくくりに、日本語ラップのパブリックイメージを決定づけるグループが誕生します。スチャダラパーです。

「持たざる者」の逆襲

1990年、デビューアルバム『スチャダラ大作戦』をリリース。彼らが提示したのは、当時の米国のハードコアな模倣ではなく、日本の若者の日常をユーモラスかつシニカルに描く「等身大」のラップでした。これがサブカルチャー層を巻き込み、日本語ラップの門戸を大きく広げることになります。

RHYMESTERとDS455の結成

一方で、1989年には早稲田大学のサークルからRHYMESTERが結成され、横浜ではDS455が産声を上げます。
「いかに日本語でライム(韻)の強度を上げるか」を追求するRHYMESTERと、「アメリカ西海岸の空気を横浜に移植する」DS455。後のシーンの核となる個性が、この5年間の最後にすべて出揃ったのです。

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第2回まとめ:1986-1990という転換点

この5年間で、日本語ラップは「お遊び」を卒業しました。

  • RUN DMC来日: HIPHOPの「リアル」が可視化された。
  • MAJOR FORCE設立: 日本独自の「基地」ができた。
  • スチャダラパー: 「自分たちの言葉」でラップする市民権を得た。

土壌は完成しました。次は、いよいよ「黄金の90年代」へ突入します。

次回は第3回【1991年〜1995年編】。日本語ラップ史上、最も「売れた」あの曲と、最も「硬派な」あのグループが激突する、波乱の黄金期。歴史の目撃者になる準備はいいか?

第3回(1991-1995)へ続く(近日公開)