知らないじゃ始まらない!日本語ラップの歴史【第1回:1981年〜1985年編】

こんにちは。日本語ラップの深淵へようこそ。

近年、Creepy Nutsが世界チャートを席巻し、千葉雄喜の「チーム友達」が国境を越える中、私たちは今、日本語ラップの「到達点」を目撃しています。しかし、その輝かしい現在は、40年以上前の先人たちの「狂気的な実験」から始まりました。

「日本語ラップっていつ始まったの?」
その問いに答えるべく、1981年から2025年まで、5年刻みでその歴史を徹底解説していきます。第1回は、すべてが未知だった黎明期(1981-1985)を紐解きます。

---

1981年:世界を震撼させた「ラップ現象」

厳密な起源には諸説ありますが、日本のメジャーシーンにおいて「ラップ」という言葉を明確に冠した最初の楽曲は、1981年にリリースされたYMO(Yellow Magic Orchestra)「ラップ現象(Rap Phenomena)」だというのが通説です。

細野晴臣氏がNYの最新サウンド(Sugarhill Gang等)に呼応して制作したこの曲は、今聴くとポエトリーリーディングに近い質感ですが、当時の日本にとって「リズムに合わせて喋る」という行為は極めて前衛的な試みでした。アルバム『BGM』に収録されたこの1曲が、日本語ラップの「観測史上第1号」となったのです。

YELLOW MAGIC ORCHESTRA

---

1982-1984年:ポップスの中の「韻」の萌芽

この時期、ラップはまだ独立したジャンルではなく、感度の高いアーティストたちが取り入れる「新しい表現手法」でした。

佐野元春が持ち込んだNYの空気

1982年、佐野元春氏が楽曲「コンプリケイション・シェイクスピア」をリリース。NYに滞在し、リアルタイムでHIPHOP文化に触れていた彼は、日本語のイントネーションを崩さずにビートに乗せる手法を確立しようとしました。これは後のラッパーたちにも大きな影響を与える「日本語ラップのプロトタイプ」と言えます。

お茶の間への衝撃「俺ら東京さ行ぐだ」


1984年、吉幾三氏によるこの曲が爆発的ヒットを記録します。「これはラップか否か」という論争は今も絶えませんが、BPM100前後のビートに乗せて、田舎の現状をユーモラスにライミングしていくスタイルは、結果的に日本人が初めて「ラップ的な快感」を共有した瞬間でもありました。

---

1985年:先覚者・いとうせいこうと「バンバータ来日」

1985年は、日本語ラップが「文化」として産声を上げた極めて重要な年です。

日本初のラップ・フルアルバム

いとうせいこう氏がアルバム『業界くん物語』をリリース。ギャグや業界ネタを織り交ぜつつも、その構造は紛れもなくヒップホップ。彼は「日本語で韻を踏むこと」のルールを誰よりも早く体系化しようとした、まさに日本語ラップの父です。


いとうせいこう

1985年の衝撃:アフリカ・バンバータ来日
ヒップホップの創始者の一人、アフリカ・バンバータがこの年、初来日を果たします。いとうせいこう氏や藤原ヒロシ氏といった当時の最先端クリエイターたちは彼と接触。単なる「音楽」としてだけでなく、ダンス・グラフィティを含む「カルチャー(思想)」としてのHIPHOPを直接注入されたのです。

---

1981-1985年まとめ

この5年間は、まだ「B-BOY」という存在すら一般的ではありませんでした。しかし、以下の3点がこの時代の功績です。

  • YMOによる「ラップ」という言葉の定義
  • 佐野元春らによる「日本語をビートに乗せる」試行錯誤
  • いとうせいこうによる「アルバム単位」での提示

すべてはここから始まりました。まだ「不良の音楽」でも「バトルの道具」でもなかった頃。ラップは、最も知的な「最先端の遊び」だったのです。

次回、1986年〜1990年編。ついにRUN DMCが来日し、ECDスチャダラパーが登場。日本語ラップは「実験」から「爆発」へと向かいます。乞うご期待!


第2回「1986-1990:B-BOYイズムの確立」へ続く